生きづらさを抱えている人たちが増えたと近年言われてきた。
しかし、それとは違い、日々を生きることの難しさを、去年から実感している人は多いんじゃないだろうか・・・。
生きることを感じるためには、死をすぐそばで感じていなくてはならない。
逆説的かもしれないが、生と死は裏表で、どちらを欠いても“生きる”という実感は乏しくなるように思う。死をすぐそばに感じていない時、人は人生という長い時間を浪費してしまうように感じる。人生とは長い時間あるように感じるかもしれないが、無限ではない。それにも関わらず、無限にあるように感じ、日々を過ごしてしまう・・・。
明日生きていること、明日も戦争がないこと・・・そういったファンタジーのなかで人々は生きていた。しかし、この新型コロナウイルスの猛威が止まらない。誰もがかかっても不思議じゃないという危機に直面して、ようやく人は気づく。
何も保障されていない、自分で今を生きていかなくてはならないことを。
人間にとって決定的な問いは、その人が無限なるものと触れているかどうかということである。これは、彼のいのちに関する焦眉の問いである。真に問題となるのは無限なるものである、ということを知りさえすれば、はかないことや、本当に重要でないすべての目標に興味を固着したりすることを避けることができる。かくて、われわれは、自分個人の所有物とみなす本質的なもの、すなわち、才能や美点を世界が認知することを要求する。人が偽りの所有物を強調したり、本質的なものに対する感受性を欠いていたりすればするほど、その人生はより満足の欠けたものとなる。人は限られた目的をもつが故に、限られていると感じ、その結果、嫉妬し、羨望する。もし、われわれが、この人生において、すでに無限なるものと結びついていることを理解し、感ずるならば、欲望や態度は変化する。究極的には、われわれが体現する本質的
なことだけに価値がある。もし、本質的なものを何も体現しなかったとしたら、人生は浪費されたことになる。
目幸黙僊 2015 『危機の世紀とユング心理学』 P361-362より、『ユング自伝2』 P109-112の孫引き
読んでいて、ここが心にひっかかった。
鬼滅の刃、今際のアリス、呪術廻戦・・・今、世の中的に流行っているものは「生き方」や「死に方」について問いかけてくるものが多い。無意識的に、リアルで感じている生存への危機感の投影が起きるゆえに、こういった物語が流行るんだろうと思う。
だが、私たちは誰しもが自分の物語を生きていく。誰のものでもない自分の物語を。
しかも、それは過去や未来ではなく、“今を生きる”ことで形作られていく。それを忘れてはいけないように感じた。
久々のブログが重い内容かもしれない。ただ、“今”大切なことに目を背けてはいけないと、一個人として強く思った新年早々だった。
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